経済史の卒論テーマ「なぜ広島は原爆投下後、急速に復興したのか」

私は、広島県で生まれ育ったので幼少期から被爆者の方々のお話を聞き、学校における平和学習として原爆について学んできました。

しかし、私の記憶では「戦争や大量殺戮兵器は使うことは人の道に反することである」ということや、「二度とこのような悲劇は起こしてはならない」といったようなことばかりで復興については学んだことがほとんどなかったように思います。

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広島は、なぜ壊滅的状況から経済復興できたのか

原爆の悲劇的な一面のみを強調するのは広島県外でも同じで、高校卒業後に東京の大学に進学し、海外留学も経験しましたが、どこでも悲劇性を強調しており、復興については触れられないことがほとんどでした。

しかし、広島の経済復興はすさまじいスピード感を持って進んだという事実があります。原爆投下後20年のうちには広島県の県民所得が国民所得を上回るまでに回復しました。

原爆によって焼け野原になった広島が日本の中でも裕福な県になったのです。

原爆の惨劇だけでなく、あの壊滅的な状況から広島がいかに復興し、日本の中でも有数の都市になったのかを学び、広めたいと思ったのが、このテーマを選んだきっかけでした。

工業技術の平和産業への転換が復興の鍵

結論から言うと、広島が復興をできたのは、「原爆投下以前から広島の産業によって培われていた工業技術を平和産業へと転換した」ことが大きく寄与したと考えられます。

広島の産業の歴史を紐解いていくと、6~7世紀ごろの鉄精錬遺跡からスタートしていることがわかります。

古くから鉄の製造という産業にとって重要な資源を生産しており、1883年には全国の鉄の生産量の約半分を生産していました。

鉄生産の技術を生かす

広島の鉄生産の技術は鉄につながりのある様々な産業と結びつくこととなります。

例えば、製針業などが生まれました。針を造るのには産業の基礎が詰まっているといわれており、広島の製造業の発展の一役を担ったと言われています。

その他にも左官道具や大工道具、農具の生産が行われていた呉では、やすりの製造が行われるようになりました。

軍都として発展した広島

その後、1894年ごろに転機が訪れます。1894年に勃発した日清戦争から広島は軍都として知られるようになります。

1903年には呉海軍工廠(軍需工場)が設置され、このころより広島産業の全面的な軍需化が始まりました。

1941年にはピークを迎え、工業による生産額が1936年の1.8億円から1941 年には4.9億円となり約2.7倍にまで膨れ上がり全国でも10位内に入る工業都市となりました。

しかし、その後太平洋戦争が激化し、次第に産業は縮小し、最終的には原爆投下を受け日本は降伏をしました。

原爆投下による広島の被害状況

原爆の被害は凄まじいものであり、1945年12月までの広島市の死者数は14万人(誤差±1万人)であり、当時の広島市の原爆投下以前の人口は28~29万人とされているため、およそ半分の人口が原子爆弾によって失われたことになります。

死者数もさることながら、爆心地から3㎞県内にあった建物の90%が被害を受け、被害総額は約8億円に登りました。文字通り広島は原爆によって壊滅的な打撃を受ました。

しかし、広島の経済はそこから目覚ましい復興を遂げ原爆投下後から20年のうちに広島県の県民所得が国民所得を上回るまでに回復します。

なぜそこまでの復興を成し遂げることができたのでしょうか。

重化学工業に特化した広島の強み

復興を成し遂げた理由としては、広島の経済が主に重化学工業に特化していたことが挙げられます。

1945年から1950年までの広島の産業構造を見てみると

  • 1位 化学工業24.1%
  • 2位 食糧生産19.8%
  • 3位 自動車製造や船舶製造などの輸送用機械14.5%

となっており、約4割が重化学工業であったことがわかります。

全国的にもここまで重化学工業に特化した県は珍しく、さらに生産額が他の産業に比べて大きいのも広島経済の特徴と言えます。

そして広島の重化学工業は戦前より軍需産業によって広島において培われていた生産技術であるため、それらが自動車製造や肥料作りなどの平和産業に利用されています。

このことから他の産業に比べ、生産額の大きい重化学工業が海軍工廠などにより、歴史的に根付いており、それらを戦後に平和産業へと転換したことが広島の復興を支えていたと考えることができます。

広島の復興はゼロからのスタートではなく、それ以前から存在していた産業を活かして行われていたのではないでしょうか。

卒業論文の研究が就活や仕事でも話題に

珍しい研究だったというのと、社会的に関心の高いテーマだったため、就活などで話題になることが多かったです。

また、現在海外の方と仕事をすることも多いため、広島出身というと必ず原爆の話になります。

海外の人の多くは「広島には大きなクレーターがあって、人はもう住めなくなっている」と考えている人も多いのですが、そんなとき原爆の被害だけでなく復興について語れるようになったのはこの卒業論文を書いたおかげだと思っています。

(文・政治経済学部経済学科 2018年卒 けの)