清少納言と紫式部は本当にライバル?二人が仕えた定子と彰子の関係に注目

もともと『枕草子』と清少納言が好きで、彼女や彼女にまつわることを学びたいと思って進学する学校を決めました。

学んでいくにつれ、清少納言だけでなく彼女が仕えた女主人である定子や世の中ではライバルと言われている紫式部、紫式部の女主人である彰子についても興味深く、面白いと感じることが増えていきました。

一条天皇を中心に繰り広げられる人間模様やこの時代に生まれた作品、その背景などについて学ぶことはとても面白く、学んで良かったと考えています。

清少納言と紫式部は本当にライバル?

世間的にライバルだと言われることがとても多い清少納言と紫式部ですが、それは彼女たちが仕えた女主人である定子、彰子が一条天皇の后であったこともそのイメージを強くさせているのかもしれません。

当論文は彼女たちの執筆した『枕草子』や『源氏物語』、またそれらが書かれた際の時代背景や彼女らを取り巻く人間模様について「語り」といった観点を中心に書かれています。

まず、誤解されがちな点を先に述べておきます。先述の通り、清少納言と紫式部はライバルと言われることが多いです。しかし、彼女たちが実際に顔を合わせたことはおそらくありません。清少納言が宮廷を去ったのと入れ替わりに紫式部が宮廷へ勤めるようになった、という見解が有力なものとなります。

おそらく、というのは千年以上も昔の話であるため正確な資料が残されていないからです。決定的なことが言えない以上「おそらく」という言葉を使わざるを得ませんが、最近の研究によりこれはほぼ確定と言っても良い事実であると考えられます。

紫式部による清少納言の辛口批評

では、何故「清少納言と紫式部はライバルである」というイメージが根強いのでしょうか。もちろん、平安時代という同じ時代を生き、『枕草子』『源氏物語』といった素晴らしい作品を残した女性である、という共通点の多さもあることでしょう。

しかし、私は他に決定的な要因があると考えます。それは『紫式部日記』の存在です。タイトルの通り紫式部の日記が書き綴られているものなのですが、この中で紫式部は清少納言に対して散々な評価を書き残しています。

意訳ですが、例を挙げると「得意顔をして偉そうにしていた」「賢そうにして漢字を書き散らしているけれども足りない点がたくさんある」などと序盤ですらなかなかの言いぶりです。ここまで強く批判し、意識していたとなると「ライバルであった」というイメージが先行するのも無理はありません。では何故紫式部はこれほどまでに清少納言を意識せざるを得なかったのでしょうか。

清少納言が仕えた女主人・定子とは

前提として、清少納言が仕えた女主人である定子、紫式部が仕えた女主人である彰子は同じ一条天皇の后でした。しかし、全くの同時期に后となったわけではありません。

まず、定子が先に一条天皇の后となり後宮を形成していました。後宮という言葉は耳慣れないものかと思いますが、サロンのようなものだと想像していただけたらと思います。そしてこの定子なのですが、サロンの女主人としての手腕やカリスマが非常に高く、かつ明朗闊達な性格をしている素晴らしい女性でした。

さらに高い教養を持ち合わせており、自らの手で自身に仕える女房たちを教育するような局面も多々あったほどです。清少納言も定子のことを絶賛しており、『枕草子』には定子の教養の高さが垣間見える場面が数多く書き残されています。

そんな定子の作り上げた後宮の雰囲気も機知に富み、教養の溢れた華やかなものでした。また、このような魅力的な女主人に仕え、支える後宮のメンバーたちの連帯感もとても強いものであったとされています。

紫式部が仕えた女主人・彰子とは

対する彰子が一条天皇の后となったのは定子が亡くなる一年前のことだとされています。若くして后となった彰子はとても大人しい性格だったそうです。

後宮自体の空気も彼女の気質を反映したような穏やかなもので、どちらかというと「出る杭は打たれる」といったような、知識を披露していくようなものではなかったようです。『紫式部日記』内に残されている有名なエピソードに「紫式部は一という漢字も書けないふりをしていた」というものがありますが、そこからもこの後宮の空気は読み取れるでしょう。

しかしながら彼女の後宮には紫式部を筆頭に和泉式部、赤染衛門といった有名な、後世に名の知れた才媛が多く仕えていたことが特徴として挙げられます。現在も残っているような有名な和歌や作品を残した人物が圧倒的に多いのがこちらの後宮です。

上記の事柄だけでも清少納言や紫式部の仕えた女主人や後宮としてのスタイルの違いが大きいことがわかるのではないでしょうか。

一条天皇の寵愛を一身に受けた定子

そしてもう一つ前提として言えることがあります。一条天皇は定子にとても深い愛情を持っていました。父親が亡くなった後、一度は出家をして宮廷を去った定子を一条天皇は呼び戻し、再度后にしたという記録が残っているほどです。

そんな天皇の寵愛を一身に受け、さらにはとても存在感のある後宮を形成していた定子、そして彼女の後宮の華やかさ、教養の深さを知らしめる象徴のような存在であった清少納言は彰子や彼女に仕える紫式部にとっては無視できない大きな壁であり、意識せざるを得なかったと言えるのではないでしょうか。

このような前提のもとで、「語る」という行為がそれぞれの後宮や『枕草子』、『源氏物語』といった作品に与えていた影響がどのようなものであったか、また、それぞれの後宮でどのような出来事があり、それがどのように「語られて」いたのか、それによってどのような影響があったのか、ということを論文内では考察しています。

知れば知るほど、考えれば考えるほど面白いテーマです。興味がある方はぜひ学んでいただけたら、と思います。

1週間に1度必ず教授に相談した

学びたいことを心に決めてから入学し、ゼミを選び、卒業論文の執筆を開始していたためか他のメンバーよりも早く、余裕を持って提出することが出来ました。

また、1週間に1度必ず教授に相談しに行き、その際には質問するテーマや不明点、疑問点を明確にしてから相談に行くことにしていました。提出後、教授はそのことをとても褒めてくださいました。その姿勢を大事にすることは就職し、仕事をしている現在も役立っています。

(文・潮)