現代の北アフリカ地域(特にチュニジア、アルジェリア、モロッコ)の3か国は地中海の南岸に位置する。
北岸の諸国であるフランス、イタリア、ギリシャなどと同様な自然環境を有しており、北岸諸国が主な宗教がキリスト教であって、ほぼ先進国であり、観光資源にも恵まれ、日本との関係も深く様々に注目されている。
一方、北アフリカ地域はというと宗教がイスラーム、発展途上国で日本との関わり合いも少ないとあって、あまり注目されてきていない。その中でもモロッコはタジン鍋、アルガンオイル、陶器などの雑貨など、注目され始めた観光資源などがあり、大変魅力的であるが、この地域の事を知ろうとすると、アラビア語やフランス語を操らなくてはならないこともあって、なかなか一般に情報が入りにくい。
このような観点から、歴史上とりわけ興味深く、意義のある議論を日本語で提示したいと考えた。
モロッコの都市「フェス」
モロッコには、京都とほぼ同じ期間、818年から1912年までほとんどの期間で首都の地位にあったフェスという都市があり、1981年に世界遺産に登録されるなど、重要な観光、学術、産業拠点となっている。
特にその旧市街は「世界最大の迷路」などとも呼ばれ、その規模、美しさ、建築史、現代の機能などの面から多くの学術的な興味を掻き立てている。
その成り立ちは約千年の歴史を紐解くことになり、非常に大部な研究が必要とされ、実際、専門的ではあるが、多くの研究実績がある。
その中でも、日本人の立場ではなかなか知りえず、かつ、この都市が長い歴史で紡いできたダイナミズムを分かりやすいような切り取り方を行い、紹介したのが私の論文だった。
13世紀半~16世紀までのフェスの盛衰を描く
実際には、モロッコが歴史上輝き、衰退を始めた期間について、つまり中世の13世紀半~16世紀までのフェスの盛衰を描くことにした。
議論の始まりを、すでに創建から400年ほど経ったこの都市、フェスに隣接した場所に、時の支配王朝マリーン朝 (フェスの支配は1248-1472)が軍事的・政治的都市フェス・ジュディドを建設したことに始めた。
本論の史資料としては14世紀から16世紀初頭までに書かれた年代記、地理書、名士録、旅行記などの同時代のアラビア語その他の史料、また、今日までの研究成果を参照し、この都市の形相とそこに流れていた都市構造の論理を明らかにした。
フェス・ジュディドの変遷
マリーン朝はフェスの征服後、手狭になった旧市街に対して、軍事的政治的機能を集約するための新しい市街として1276年にフェス・ジュディドを建設した。
この街は城壁に囲まれており、首都の機能を守る構造を持ち、当初の街の主な構成要素は、行政府を含む宮殿とイスラーム教徒廷臣のためのモスク、並びに、キリスト教徒傭兵とシリア人の射手という兵隊要員のための居住地域だった。
そして、その後の約100年を経て、この街の元来の機能はさらに強化され、城壁の強化、宮殿の拡張、廷臣を確保するためのイスラーム学院の創設、兵隊を養うための穀物庫の街区内への移設、軍需工場の新設などが行われた。
しかし、その一方で、モロッコを飢饉が襲い、農村が荒廃し、またスペインがレコンキスタ(再征服)を進めており、14世紀半ばから多くの農民らがフェスに移住してきた。
マリーン朝は軍備に予算が無くなる中で、14世紀末までにフェス・ジュディドに住んでいた傭兵と射手を次々と解散させた。この空間にその後は、農村からきた農民やスペインを追われたユダヤ教徒などが入ってくるようになった。
このようにして、フェス・ジュディドは本来の性質を失っていった。このような変遷はまた、隣接するフェスそのものの、変遷とも連動している。
フェスはそれ以上に多くの新しい市民を受け入れ、市街地には学問センターとしてのイスラーム学院が多く建てられ、市民の生活空間はフェス本市の城壁外にも拡大した。その郊外の生活空間には、スラム然とした住居が並んでおり、一方で貴族らが余暇を過ごす庭園があった。
また産業上重要な設備もあった。それは小麦粉を作る製粉所、大量の洗濯物を干す洗濯屋のためのヤード、陶器を作る陶土採掘所とその工場、墓地などである。フェス・ジュディドの変遷はこのような郊外の機能に侵食されるように起きており、それは隣接するフェスの事情に大きく関係していると結論付けた。その上で、中世における、市街と郊外の定義や機能について考察を行った。
進学ではなく就職を選んだ
ギリギリまで執筆に時間が掛ってしまい、修了までに就職活動が終わらず、就職浪人することになってしまった。しかし、職が決まるまで、いくつかの学会やワークショップなどに出席していたが、この論文を取り上げてくれたり、手に取ってくれたりという研究仲間、先生などがいた。
しかし、修士課程で自分の論文も含めて、研究活動をする中で、同期の様子や教授のアドバイスなどにもたくさん触れたが、自分の能力的な限界を悟り、博士課程に進んで研究者の道に進むのは自分のやりたいことではないと思い、1年半ほどのちにあまり関係ない仕事に就いた。
(文・やしん)