ホイジンガ、カイヨワ、バタイユ…「遊び」の教育的価値とは?

大学生の時、教育について深く学ぶコースに所属していたのですが、なかなか卒業論文のテーマを決めることができませんでした。

そこで思い切って、教育とは逆の発想で「遊び」について研究したいと指導教員に申し出たところ、快諾してくれ、おすすめの本を紹介してくれました。

調べていくうちに、遊びが教育とは逆のものあると思っていた自分の発想が全く浅はかで、むしろ遊びを抜きにして教育を考えることはできないということがわかりました。このギャップが、この卒業論文の一番の魅力であると思います。

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遊びの価値は?

「遊び」と一口に言っても、世の中にはいろいろな遊びがあります。そして、年齢に関わらず、大人も子どもも実にさまざまな遊びに興じています。

現代社会では、技術の進歩により、一昔前では考えることもできなかった遊びを誰でも気軽に体験できるようになってきました。

しかし、多くの人が、遊びは人生において気分転換や楽しみを与えてくれる以上の価値はない、と思い込んでいるのではないでしょうか。「子どもは遊ぶのが仕事」という言葉もありますが、それが通用するのも小学校就学前までで、小中高と学年が上がっていくにつれ、子どもたちは受験や勉強に追い立てられることになります。

勉強をさぼって遊んでいたことで親に叱責された、という経験の一つや二つは誰にでもあることでしょう。

ホイジンガ、遊びと文化

しかし、現代人は本当の意味での遊びの意義や重要性を忘れてしまっているのではないでしょうか。オランダの歴史家であるホイジンガは、遊びこそがあらゆる文化の根底にあると指摘しています。

人間は、長い歴史の中で芸術やスポーツなどのさまざまな文化を築いてきましたが、それらはすべて遊びの中から生み出されてきたのであり、遊びこそが人間の活動の本質であると考えたのです。

現代教育の場においては、学校の中でこうした文化に触れる機会が作られていますが、それはあくまで美術や音楽といった教科という枠組みの中です。しかし、そうした捉え方をしている限り、人類が長きにわたって築き上げてきた文化の本質に触れることは難しいのではないでしょうか。こうした文化の基底に遊びがあったことを理解してこそ初めて、本当の意味で文化の本質に触れることができるはずです。

カイヨワ、遊びの4分類

また、フランスの思想家であるカイヨワは、遊びを4つに分類することから、人間にとっての遊びの本質に迫りました。

カイヨワによれば、遊びは「競争」「模倣」「偶然」「眩暈」の4つに分類されます。このうち教育とのかかわりが深いものは「競争」と「模倣」の2つです。

「競争」の遊びの代表は、スポーツです。さきほども述べたように、これは学校教育の中でも積極的にカリキュラムに取り入れられているものの一つと言えるでしょう。

「模倣」の遊びの代表的なものとして挙げられるのは、演劇です。これも、部活動や学校行事など、学校教育の中で経験する機会が多いものです。

大人の真似をして学ぶ子供

また、「模倣」は真似をするという意味ですが、一説によれば「学ぶ」という言葉の語源は「真似ぶ(まねぶ)」であると言われています。

教育学の用語にも「模倣学習」という言葉がありますが、小さな子どもたちにとって最良の学習方法は、近くにいる大人たちの真似をすることです。

例えば、大人が何も教えなくても子どもが言語を覚えていくのは、子どもが好奇心から、言い換えれば「遊び心」から、大人の話す言葉を真似ることで自然に言語の学習が成立しているからに他なりません。このように「競争」と「模倣」の遊びは、教育に深くかかわる遊びであるということができるでしょう。

偶然と眩暈の遊びは教育的ではない?

一方、カイヨワによれば、「偶然」や「眩暈」の遊びは、教育的な遊びには分類されません。「偶然」の遊びとは、つまり賭け事のことです。また、「眩暈」の遊びとは、ジェットコースターのようにあえて平衡感覚などを混乱させるような遊びを思い浮かべるのがわかりやすいでしょう。

確かに、ジェットコースターに乗ることで私たちの能力を何か向上させることができるのかと言われれば、疑問です。また、賭け事も、ある程度までは知識でできる部分があるとはいえ、結果の大部分を左右するのは運であり、賭け事をすることが教育的に有用であるかと言われれば、これも疑問です。

こうした観点から見れば、「偶然」と「眩暈」の2つの遊びは、教育的な遊びから外されることになるでしょう。

バタイユ、非生産的な遊びが必要な理由

しかし、より広い視点から考えてみると、特に「偶然」の遊びは、必ずしも人間にとって無駄なものであるとは言い難い面もあります。実際、多くの社会では、賭け事は禁止される一方ではなく、ある一定のコントロールの下で管理運営されており、競馬や競輪はその代表とも言えるでしょう。

このように社会から賭け事が完全に排除されない理由は、こうした無駄遣いともいえる消費行動が、実は人間にとって必要不可欠であることの証しかもしれません。

例えば、フランスの思想家であるバタイユは、人間にとって本質的な消費とは、何かを生み出すために行われる生産的な消費にあるのではなく、熱狂的に浪費されていくような非生産的な消費にあると説いています。

バタイユによれば、人間は、自分たちの成長に必要な量以上の富を蓄積しすぎると、それらを制御できなくなってしまい、その富が逆に人間を不幸にすることになります。例えば、大きな予算を費やして備蓄された兵器を用いて行われる近代的な戦争は、その不幸のうちで最も大きなものです。

そして、こうした事態を避けるためには、本来、蓄積されるはずだった富を無駄遣いしてしまうほかないというのです。

ここまで考えれば、賭け事を教育の場から全く排除してしまうことは、必ずしも得策であるとは言えないのではないでしょうか。もちろん、積極的に奨励する必要はないかもしれませんが、賭け事との付き合い方を学ぶことはあってもいいのかもしれません。

また、考えようによっては、遊びというもの自体が、何も生み出すことのない非生産的な営みであるかもしれません。しかし、子どもたちから必要以上に遊びを奪うことは、人類にとって大きな不幸をもたらすことになるのかもしれません。

若い時にしかできない発想で卒論を書いた

賭け事に教育的な意味を見出してみようという主旨の卒論にしてしまったため、卒論の発表会では明らかに嫌悪感を示される先生もおり、冷や冷やしたのを覚えています。

今にして思えば、よくこんなテーマを選んだものだと思いますが、若い時にしかできない発想だったかなと思います。