大学で日本宗教史を学び始めた頃、神仏習合に強い興味を抱きました。
そしてその時手にとったのが、学研より出版されている『神仏習合の本』でした。
この本の中にはこれまで考えたこともなかったような中世日本人の豊かな信仰世界が、豊富な図版とともに紹介されていました。
中でも興味を持ったのは大神神社に伝わる秘伝の存在でした。
その中には日本の神が蛇の姿で表現されるという、非常にショッキングな伝承が記載してありました。
神といえばなんとなく神聖なものだろうと思っていた私の常識が一瞬で取り去られた瞬間でした。
昔の宗教者は現在の私たちが考えるよりもずっと神仏を自由に解釈していたのです。
当時、私は学部の2年生でしたが、この瞬間卒業論文はこれを取り扱おうと心に決めました。
神仏習合とは?
中世の大神神社には三輪流神道と呼ばれる中世神道の一流派が伝承されていました。
この三輪流神道という流派は神仏習合という考え方を骨格に生み出されたものです。
では神仏習合とはなんでしょうか。
これは一言で説明することはとても難しいことです。
この神仏習合自体今でも日本宗教史の中で議論されている考え方だからです。
ここでは標準的な考え方を紹介したいと思います。
神道と神祇信仰
仏教が中国大陸から朝鮮半島を経由して日本に輸入されたということはよく知られています。
それまでの日本にはアニミズム的な、自然の力を神に見立てて信仰する原始的な形態の宗教が存在していました。
これを神祇信仰といいます。
神道という考え方自体が非常に難しく、あくまで生活の安寧を祈願するための神祭りというレベルの信仰は神道と言ってしまうより神祇信仰と呼んだ方がよいと考えられています。
ただ神道とは何か、仏教とは何か、神祇信仰の定義とは、と考え出すと大変複雑な話になりますので、ここでは仏教伝来以前から存在する神祭りを神祇信仰と呼ぶことにしたいと思います。
仏を信仰するのか神を信仰するのか
さて仏教が日本に伝わってまず起こったのは、それを受け入れるのか受け入れないのか、という議論でした。
結果は聖徳太子らの活躍で仏教信仰を受け入れる流れが主流となりました。
ここで問題が生じてきます。
当時、仏教の非常に哲学的な信仰をきちんと理解しているのは少数派で、ほとんどが従来の神への信仰と同様に現世での福徳を祈る外来の神、という扱いを受けていたのです。
仏のためにお寺を立てたり、仏像を作ったり、お坊さんにお布施をしたりすると、その功徳によって生活が豊かになると考えられていました。
しかしこれができるのは皇室や有力な豪族くらいなものです。
彼らは政治的な権力者であると同時に神祭りを担う司祭者でもありました。
近年天皇陛下の即位儀礼が行われましたので記憶に新しいかと思います。
彼らは仏を信仰するのか神を信仰するのかという帰路に立たされたのです。
古代日本の神仏関係
仏教は非常に柔軟な宗教で、現地の神々を自らの信仰体系にうまく組み込んできたという歴史があります。
例えば弁財天。
この神はもともとはインドの水にまつわる神でしたが、仏教を守護する神として取り入れられ、今でもお寺に弁財天が祀られている姿を見ることができます。
これが日本でも起こりました。
事の発端はどうやら地方の方から中央政権、つまり朝廷の方に広がっていったようです。
古代日本の神仏関係を述べた研究書は膨大な量がありますので、興味がある方は参照されたらよいかと思います。
最初期のこの現象の表れ方は非常に巧みなものでした。
主に2通りあります。
神身離脱とは
1つ目は神身離脱という考え方です。
仏教は六道といって天から地獄までの6階層の世界観をもっています。
仏教、つまり釈迦の教えに従って悟りの境地に達するまで、あらゆる存在はこの6つの世界の中をぐるぐる回り続けることになります。
これを輪廻転生といいます。
日本の神はこの天に位置づけられました。
つまりまだ悟りを得ることができず、輪廻する苦悩する存在であると考えられました。
その結果生じたのが神を救済するために仏教を利用しようという考え方でした。
神の前でお経を読み上げたり(神前読経)、神のために寺院を建て(神宮寺)、僧侶を神に仕えさせたりしました(社僧)。
明治維新の廃仏の影響でこうしたものはほとんどが消滅してしまいましたが、いまでも神社の中に仏堂が残っていたり、仏塔が残っているところもあります。
護法善神とは
2つ目は護法善神という考え方です。
これは法、つまり仏教を善い神が守ってくださる、という考え方です。
今でも寺院の中に神の祠があるのを見ることができますが、それはこの考え方によるものだと考えて良いでしょう。
このようにうまく神と仏の信仰をミックスすることに成功し、それは明治時代までは当たり前のように存在していました。
本地垂迹説とは
そして平安時代後期から神仏習合のハイライトとも言うべき本地垂迹説が唱えられるようになります。
これは鎌倉時代以降盛んに登場する神道流派、とりわけ仏家神道の核となる考え方です。
簡単に説明しますと、日本の神はインドの仏や菩薩が、日本人がもっとも受け入れやすい形で現れたものである、という考え方です。
例えば伊勢神宮内宮の天照大神は大日如来という仏が日本人の感性に合わせて姿を変えたものだ、とこうなるわけです。
こうして神と仏はついに一体の存在となりました。
このような日本全体の流れの中で、鎌倉時代に三輪流神道は産声を上げました。
三輪流神道と大神神社
大神神社には2つの神宮寺が存在していました。
1つは大御輪寺、もう1つは平等寺といい、それぞれが微妙に異なった流派を継承していました。
中世においてはどうも平等寺の勢いが強かったようで、鎌倉時代に製作された大神神社の境内図をみると平等寺が大きく描かれています。
しかし歴史的には大御輪寺の方が古く、奈良時代に起源があると考えられています。
また三輪流神道の縁起も大御輪寺の立場から作られており、初期はこの大御輪寺が主要な役割を果たしたのではないかと考えられています。
三輪流神道の特徴は大神神社を胎蔵界の大日如来、その摂社檜原神社を金剛界の大日如来と設定し、密教を取り入れたところにあると言えます。
これは大神神社独自のものではなく伊勢神宮や他の神社にも見られる両部神道と呼ばれる仏家神道の基本的な考え方です。
密教とは真言宗や天台宗が今にも伝えていますが、非常に呪術色の強い仏教の一流派です。
鎌倉時代の大神神社では密教を取り入れ、密教色豊かな祈祷書や修行書を編み出していきました。
「大神神社では」と言いましたが、これらの宗教的な営みに関与していたのは神官ではなく僧侶でした。
それはたくさん残っている文献のあとがきからもわかります。
龍蛇、神は苦悩する存在
こうして神仏混ぜんとした大神神社に古代の神身離脱の考え方が再び浮かび上がってきます。
仏教のお経の中に三熱の苦と言って龍が受ける苦しみを説明したものがあります。
かつての日本では龍と蛇があまり厳密に分別されず、「龍蛇(りょうだ、またはりゅうじゃ)」というようにまとめて表現する場合もあります。
東洋的な龍は体が蛇のようなのでこれはある意味仕方がないことかもしれません。
龍は仏教では苦しみを受ける存在だったわけです。
神身離脱は神が苦悩する存在であるということを前提にした思想です。
したがって苦しむ龍または蛇は、苦しむ神の姿そのものであると捉えられたのです。
また日本神話で語らているように大神神社の神様の正体は蛇であるという伝承も大きな要因としてあったでしょう。
こうして神様は蛇体へと変貌し、大神神社の儀礼の中にそのままの形で取り入れられていきました。
大学院修了後もライフワークに
卒論提出後、口頭試問で教授からいろんなことを指摘されました。
その時「まだまだ勉強が足りない」と痛感し、大学院でしっかり学ぼうと決めました。
また卒論の限られた字数の中にあれもこれもと詰め込みすぎたせいで非常に内容の薄いものに仕上がったのは今でも私が論文を書くときの反省になっています。
大学院を修了した今でも、神仏の世界への探求は終えていません。
明治時代に一度は切り離された神と仏ですが100年以上の時を超えて、関西を中心に「神仏霊場会」が結成され、神仏の世界はまた新しいステージへと進みました。
今ではHPで「神仏習合の」という謳い文句を掲載している神社や寺院を見かけるようになりました。
卒論で学んだことは今では私のライフワークとなりました。
卒論提出時の教授の指導や自己反省は今でも大きな財産です。
(文・鳥居の上の鳥)