臨床心理学の中でも教育場面における臨床心理を専攻していたため、生徒への影響力を持つ教員を対象とした研究をしたいと考えました。
研究結果を現場に還元することができるならばと考えた際、既に教職に就いている教員を対象にしても変化を促すことはなかなか難しいのではないか、と気付きました。
そこで、教職に就く前段階の教育学部の学生を対象に調査し、学生のうちに何を学び何を感じておくことが望ましいのか、という点を明らかにしたいと考えました。
学校現場における死生観はどうあるべき?
残虐な事件や、自殺など、人の死に関する出来事は学校現場でも実際に起きています。
これらを防ぐために何ができるか、もし事が起きてしまった際にどう関わっていくことができるか、教員は常に心に留めておくことが求められます。
そこで、「教員を目指す学生が持つべき死生観とは何か」を卒業論文のテーマにしました。
生徒たちへの指導する教員がどのような死生観を持っていると、人の死に対する認識や命の大切さを適切に理解できるような指導ができるか、ということを明らかにしたいと考えました。
教員を目指す学生が現在どのような死生観を抱いているのか、そこに何か過不足はあるのか、大学での教育といかに取り入れるべきであるのか、ということを検討したいと考えました。
教員を目指す学生の死生観を調べる方法
教育学部の学部3回、4回生を対象に、5択式の質問紙調査を行いました。学部3回、4回生を対象としたのは、教員になる見通しがある程度定まっており、かつ専門教科・小中高の選択が決まってくる時期であるためです。
学部1回、2回生の段階であれば、必ずしも教員になるとは限らず、学部生のうちに何を学ぶべきかという調査結果を薄める可能性があると考え、調査対象からは除外しました。
得られた調査結果に対して統計処理を行い、死生観尺度と複数の尺度によって相関を見ました(既存の尺度を著者許可を得た上で使用)。
楽観的死生観と悲観的死生観
物事は多くの場合ポジティブであることが良好なものと見なされますが、死生観に関して言えばネガティブであることにも大いに意味があることがわかりました。
例えば、「死ぬのは怖くない」という楽観的死生観であるのと、「死ぬのは怖い」という悲観的死生観、どちらが望ましいかと考えると、後者になります。
当然、これらは時と場合によって良いとされる概念が変化するものですが、教育という場面に限定すれば、「死ぬのは怖い」が望ましいことになります。
一方で、例えば余命わずかの方が病床において「死ぬのは怖くない、もう充分に人生を楽しんだのだから」と言っていたとすれば、それは「死ぬのは怖い」よりも健全な印象です。
つまり、教員及び教員を目指す学生たちは、悲観的死生観をこそ持っていて欲しい、「死ぬのは怖い」という認識を持って欲しい、ということです。
自己肯定感の高さと死生観には相関関係がある
結果として、楽観的死生観と自己肯定感の低さには相関がありました。自分に対する価値を感じていない場合、「別にいつ死んでもいい」「死ぬのは怖くない」という思考に近づいていきます。
一方で、自己肯定感が適切にあり、自分や周囲の他者をも大切に思える場合は、「死ぬのは怖い」と捉えます。自分が死ぬことで悲しんでくれる存在がある、その存在に気づいている、周囲の存在も大切にしようとしている、などが悲観的死生観を形成する一つの要素となるわけです。
これらを総合し、大学の教育においては、まずは学生自身の自己肯定感が高まるような教育を進めることが重要であると考えられます。
自他を大切にする信念が形成され、ひいては悲観的死生観につながり、教壇に立つ際には生徒たちへ命を大切にしようという指導を本音で出来るようになる、と考えました。
教科書の内容をただ読み上げるだけでなく、教員の側が本音で命の重みを語ることができたら、生徒へも適切に還元されることでしょう。
大学の教員は、将来の教員を育成するにあたり、否定的な指導をしない、適切に褒める、苦手なことがあれば得意なことで補うスキルを培う、教員の一択ではなく広い可能性を持たせておく、などが求められると考えられます。
量的研究と質的研究
アンケートを用いた量的研究にとどまったことが悔やまれます。死生観に触れる臨床場面の観察、インタビュー等の質的研究をして内容を深める方が、より有意義であっただろうと思っています。
量的研究も質的研究も被験者に負担をかけることは理解すべきことに変わりありませんが、量的研究の場合は一人一人のその回答の背景を尋ねることができないのも、またもったいなく感じることです。
例えば楽観的死生観が高い学生のその理由を聞けば、身近な人の死に直面し乗り越えようとしている時かもしれません。悲観的死生観が高い学生は、抑うつ症状が出ている可能性もないとは言い切れません。
これら一つ一つの心理的サポートの必要性の一切を省き、ただ数値で処理していくのは、もどかしいことです。もちろん、量的研究でこそ統計処理を経て説明できることもあります。
(文・ゴロまる)