日本は戦後一貫して海外での武力行使を行わないという方針を取っています。
その方針のため世間では武力行使や戦争について議論すること自体がタブー視されてきたように感じます。
もし仮に「日本は国益のために積極的に武力を行使するべき」というようなことを言うとまるで非国民のように見られるでしょう。
学校でも「戦争の悲惨さ」を強調し感情に訴える平和教育が行われています。
私はそのような平和教育や世論の在り方に幼いころから疑問を抱いていました。
戦後の「平和教育」への疑問
「平和は大切」なのは論を待たない事実であるが、そのための手段として武力行使や戦争が是とされないのは何故なのか。
本来であれば、学校における平和教育などでは感情に訴えるのではなくそのあたりを冷静に、論理的に説明するべきではないか。
以上の疑問から、私は大学において世界平和のために設立された国際連合、そして戦後国連の軍事活動のメインとして行われてきたPKOについての研究を行うことにしました。
国連およびPKOの研究の魅力は、先述の私の疑問に答えを出せることではないかと考えました。言い換えれば、平和と武力行使のことについてよりよく理解するのに役立つということです。
国連軍とPKO
私の卒業論文ではPKOの武力行使が90年代以前の「伝統的PKO」と90年代以降に登場した「現代PKO」においてどう変わったかを解き明かしています。
本題に移る前に、まずは国連とPKOがなんなのかを説明しておかなければなりません。国連とは世界の平和のために作られた組織です。では、一体どうやって世界を平和にしようとしているのでしょうか。
国連が世界を平和にするための手段として想定しているのは、最終的には「武力」です。どこかの国が他国への侵略を開始した場合、国連の安全保障理事会は「侵略はやめなさいよ」という勧告や経済制裁を行い、侵略国に対し侵略行為をやめるよう圧力をかけます。
それでも侵略が止まらなかった場合、いわゆる「国連軍」が出動し侵略国を成敗するという仕組みです。
国連軍の事例
事例としては朝鮮戦争の際に出動した「朝鮮国連軍」、湾岸戦争の際に出動した「湾岸多国籍軍」がこれに当たります(厳密にいうと国連憲章上これらは国連軍ではないのですが複雑になるので割愛します)。
一言でいえば世界の警察のようなものです。日本国内で私が隣人の家を武力で侵略しだしたら、警察が来て私を力ずくで取り押さえます。それと同じことを国際社会でもやろうというわけです。他国に侵略した違法国家に対し、力ずくで平和を強制する。この働きを「平和強制」といいます。
PKOとは
これに対し、PKOは「平和維持」の働きを持った国連の軍事活動です。簡単に言えば「停戦監視軍」です。
停戦合意した両軍の間に割って入り、現場レベルの小競り合いから戦闘が再開しないよう監視します。国連が戦闘再開を防止して見張っている間に両軍の偉い人には和平合意を結んでもらおうというわけです。
停戦という仮初めの平和が崩れないよう維持する、まさしく「平和維持」です。
PKOにはPKO3原則というものが存在します。「中立、紛争当事者の合意、自衛限定の武力行使」の3つです。
PKO部隊は紛争当事者のどちらかを助けたり、逆に追い詰めたりしてはいけません。また、派遣に先立って紛争当事者たちに同意を取ります。
そして武力行使は自分の命を守るためだけの最小限度に留めます。PKOは軍隊ではあるものの、戦うために派遣される軍隊ではないのです。
この「戦わざる軍隊」はノーベル平和賞を受賞するなど、戦後の世界平和に大きく貢献してきました。
PKOの変化
90年代に入り、PKOは変質しだします。先述の「平和強制」と「平和維持」の枠組みでとらえるなら、「少し平和強制的要素が入った平和維持」とでも言うような性質のPKOが増えてきます。
90年代、戦争の形は変わりました。かつては国家対国家、国家対反乱軍といった比較的わかりやすい構図のものが多かったのが、小規模な民兵組織や自警団的な組織が入り乱れ、国が崩壊するような泥沼の戦場が増えてきます。
90年代以前には効果的に機能したPKO3原則もこのような状況では逆効果となるケースが出てきました。
泥沼の戦場では、規律が取れていない民兵組織が入り乱れているためPKO派遣の合意や停戦合意はすぐに反故にされ破られます。また、泥沼状態になると何の罪もない一般市民が戦闘員から略奪や暴力に合うケースも増えてきます。
PKO3原則を守れない理由
このような状況でPKO3原則を守っていたらどうなるでしょうか。
「派遣合意が崩れたので帰ります。」
「一般市民の救助なんてできませんよ。だってそれ自衛のための武力行使じゃありません。」
「一般市民を攻撃している武装勢力を武力で止める=その武装勢力はPKOの攻撃で弱るから他の武装勢力の得になる。つまり中立じゃない。中立じゃないことはできません。」
ということになります。
現代型PKOの誕生
わざわざ国連が軍隊を派遣しているのに、虐げられている無辜の市民を見殺しにするようでは何のための派遣かわかりません。
かくして「派遣合意を反故にしてPKOに牙をむく現地武装勢力に実力で対抗せよ。」「現地一般人を守るためには自衛以外の武力行使も止むを得ない。」「中立を重視するあまり善悪を平等に扱うようなことがあってはならない。」といった形の新たなるPKO「現代型PKO」が生まれたわけです。
この現代型PKOはシエラレオネやコンゴ民主共和国、南スーダンなど多くの紛争地に派遣され、多くの困難に直面しながらもその任務を遂行しています。
自衛隊の海外派遣についての誤解
この話を読んで皆さんに考えてもらいたいことは、自衛隊のPKO派遣や海外派遣についてです。
戦後一貫して自衛隊の海外派遣に慎重だった日本国がPKOへの部隊派遣を行ってきたのはPKOが「停戦監視軍」「戦わざる軍隊」であり、本格的な戦闘に巻き込まれる危険性が少ないからだったのは疑いようがありません。
かつて自衛隊が派遣されたカンボジアPKO(これは伝統的PKOに分類される)では、自衛官たちは小銃に弾を入れずに活動していました。しかし現代型PKOはどうでしょうか。
とても弾なしの銃を持って活動できるようなものではありません。PKO要員たちは現地一般人の保護のために殺し、殺される立場に立たなければならない時もあります。
我々国民は自衛隊の海外派遣やPKO派遣について、このようなPKO活動の変質を知ったうえで議論する必要があるのではないでしょうか。日本がPKOへの協力をしだした頃の常識のまま「PKOはめったに戦闘しないから大丈夫」として思考停止に陥ることだけは避けたいものです。
2010年代に自衛隊が派遣された南スーダンPKOは、私の考えでは現代型PKOに分類されるものです。そこへの自衛隊派遣に際して国会やマスコミにおいて大きな議論が起こらなかったことは、非常に大きな問題であったと考えざるを得ません。
おそらくみんな「PKOだからカンボジアの時と同じだろう」程度の考えだったのでしょう。その後南スーダンの情勢がどうなったかは皆さん知っての通りです。情勢は悪化し、結局自衛隊も撤退することとなりました。
国際関係の授業で講義する機会を得る
指導教官からは「学部生レベルのものとしては良くまとまっている」として高評価を頂きました。
指導教官が持っている国際関係の授業において、私がこの論文をまとめたパワーポイントのスライドを用いて学生たちに講義を行うような機会も頂きました。
指導教官がほかの先生に私を紹介してくれたので、このように講義を行う機会を2度頂き、非常に貴重な経験となりました。。
(文・政策創造学部政策学科 2014年卒 k139257)