大学1年間休学をしてベトナムに研修留学をした際に違和感を覚えました。
ベトナムは親日国として有名ですが、日本で明治維新後に当たる時代に日本への留学促進運動があったことに衝撃を受けました。
しかし日本に関する運動であったにもかかわらず日本の教科書に留学運動は名前すら載ることなく、大きくベトナムが取り上げられるのはそこから約60年後のベトナム戦争まで待たなければならないことに疑問を感じました。
また、ベトナム人の日本への羨望のまなざしは、現地で生活した身として、昨日今日できたものではないと思い、その理由を探るうちに、運動家ファン・ボイ・チャウにたどりつきました。
私はベトナム人の日本への羨望はいったいどこからきたのか、なぜチャウは列強である欧米ではなくアジアの小国・日本に目を向けたのか、そしてそれらが現在の親日感情に影響があるのかをチャウの独立運動の歴史を紐解いて考察することにしました。
欧米に侵略されていない日本
1880年代当時、ベトナムはフランスの植民地として「フランス領インドシナ」と呼ばれ、ラオス・カンボジアと同国として扱われていました。
その当時、アジアの盟主として誰もが認める大国、清はイギリスをはじめとする欧米諸国に完膚なきまでに敗北し、好き放題去れる状態になっており、かつての盟主・大国の面影は既にありませんでした。
また、他のアジア諸国も欧米の侵略に侵され植民地と化しており、アジア全体が先の見えない不安と欧米に対する不満が渦巻いていました。
その中にあって、祖国ベトナムを憂える知識人は、日本という欧米の侵略の波に飲み込まれていない国の存在を見出します。
当時、欧米への対抗手段は武力と決まっていたような時代。多くの若者は義勇軍を組織してはぶつかり、消えていっていました。その中にあって、世界の表舞台に突然出てきた国、日本だけが欧米の侵略を受けず、逆に国力を増していることに知識人たちは様々な思いを巡らせます。
それでも、「所詮はアジアの国、いつかは欧米に飲み込まれるだろう」とベトナム知識人たちはそう思い、自らの手記にもそう書き残していたのです。
ファン・ボイ・チャウとは
しかし、事態は彼らの想像を裏切っていきました。
1894年、日本は日清戦争で、満身創痍だったとはいえアジアの盟主・清に勝利、さらにその10年後には欧米列強の1つロシア帝国を日露戦争で打ち負かしたのです(という風にベトナムではとらえられている)。
これには彼らベトナム知識人が驚かなかったわけがありません。同じアジアでありながらなぜ彼らはここまで強くなれたのか。数多くの知識人はその強さの秘密を探りましたが、一向にその要因はわからないままでした。
その中にあって、「ベトナムにいて考え続けてもわからない」と、一人の青年は日本へ密入国することを計画します。
青年の名はファン・ボイ・チャウ。地元で神童と言われ、知識人に引けを取らない学識を持つ彼も、国内で義勇軍を組織しては失敗していた1人でした。
東遊(ドンズー)運動を開始
当時、ファン・ボイ・チャウは日本に武器の援助をしてもらおうと考えていました。あくまで武力によって祖国の解放を目指したのです。
しかし彼は清から亡命してきていた友人に、人材教育の必要性を説得されて納得し、日本で学ぶことこそ、祖国解放の近道と考え日本へ向かう決心をします。
清人の友人の手を借り、さらにグエン王朝の皇太子を伴って日本に向かったチャウは明治政府の重役、犬養毅と会見します。
また日本の軍隊、教育をみて、「これは私一人が学んでも仕方ない。もっと多くのベトナム人に学ばせなければ。」と痛感。一緒に来日した皇太子を盟主として、1905年、東遊(ドンズー)運動と名付けて運動を開始します。
支援者には日本人医師もおり、革命は大きく動き出しそうな気配がしてきました。
実際、この留学運動で来日したベトナム人青年は200人を数え、のちにベトナムで解放運動の陣頭指揮を執った知識人も日本での勉強をしていました。
福沢諭吉「脱亜論」と東遊運動の消滅
しかし日本には日本の事情があり、これらの運動を全面的に支援できない事情がありました。
それは欧米との条約や同盟もありますが、最も大きな理由は福沢諭吉が打ち立てた「脱亜論」が世論の中心になっていたことでした。
つまり、日本は今後アジアという枠組みではなく、欧米の仲間として強国となっていくべきである、という考え方だったのです。
結局、東遊運動は日仏協定を理由に圧力をかけてきたフランスを無視しきれず4年で消滅しました。また首謀者のチャウも日本国外へ追放となり、中国・広東省に亡命しました。
日本は学ぶべきアジアの同胞
ベトナムに帰国した留学生たちはそれぞれの思想に基づいて独立運動に身を投じることになりましたが、大きな成果を上げることは誰一人としてできませんでした。
その中にあって、ファン・ボイ・チャウは手のひらを返して自分たちを追い出した日本に対して、さぞ失望しているかと思いきやそうではありませんでした。
日本人に対してはあくまで「学ぶべきアジアの同胞」という姿勢を生涯崩すことはありませんでした。それらは手記にも残されており、欧米を打ち破った日本に対して向けられた羨望のまなざしは、第二次世界大戦で日本軍が仏印進駐をした際に歓迎を持って迎えられた事実をもってして継承されたといって間違いないでしょう。
しかし、結局この後日本を手本とした革命は行われず、チャウの革命思想は継承されることはありませんでした。
ベトナム人の日本への羨望
日本に対する羨望のまなざしは現在も受け継がれています。例えば日本はベトナム人の留学先としても人気です。
また、日本で公立中学校に当たる学校では、外国語に日本語の選択ができることもその裏付けと言えるでしょう。この考え方はチャウの時代からずっと継承されていると考えてもよいでしょう。
しかし、ベトナムは日本のようにアジアを置き去りにして革命をするには遅すぎたということだったのでしょうか。革命運動は旧来の武力抗争に逆戻りしてしまい、本当の意味でのベトナム独立は1976年のベトナム戦争の終戦まで待たなければなりませんでした。
なおこの論文はかなり難しい内容になってしまい、終わりの方がよくわからないと指導教授に言われてしました。
内容がマイナーで、方々の大学を訪ねていたため卒業前に多くの大学院から声をかけていただきました。
(文・Minh)